- 2008-10-21 (火) 12:09
- 神社
投稿者:吉祥さん
熊野三山・旧社地のうち新宮(速玉)の神倉神社・那智の飛瀧神社の二箇所をご紹介しましたのでこちらも・・・。
龍神から熊野本宮へ向う道の右手に巨大な鳥居が見えます。高さ34m・幅42m日本一の大鳥居です。
熊野本宮大社の旧社地である大斎原(おおゆのはら)は熊野川・音無川・岩田川の3つの川が合流する川の中州にあります。かつて神倉の地に降臨した熊野三神のうち熊野家津御子大神(けつみこおおかみ)が川を遡りこの地に坐したのがはじめとされています。
江戸時代まで音無川には橋が架けられなかったため参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。そのため熊野では「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」と言って水で濡れたわらじと泥で汚れた着衣での参拝が許されていたといいます。参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
明治に入ってからの急激な森林伐採により明治22年(1889年)8月の上流の十津川で大水害が起こります。濁流となった熊野川が中洲にあった本宮大社の社殿をも呑み込んだのです。ほとんどの社殿が流出、境内372坪が決壊してしまいました。
かつての本宮大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、現在の8倍もの規模を誇っていたそうです。
神々の坐す場所熊野。大洪水による社殿の流出は何を物語っているのでしょう・・・・?
大斎原には駐車場がありません。鳥居の反対側の道路上に車を停めて大斎原に渡ります。(本宮そばの駐車場から歩いても500mほどだそうです。)コンクリートむき出しの橋には欄干がありません。森に囲まれた旧社地に入っていくとすっと空気が変わります。清々しい森の空気は外界の喧騒を忘れさせてくれます。
苔むした大きな石垣はかつての本宮大社の壮大さを物語っています。
中央は開けた草むら。右手には「南無阿弥陀仏」と彫られた一遍上人神勅名号碑・左手に石造りの祠が二つ並んでます。石祠の手前にある二本の木はイチイの木。
「熊野権現御垂迹縁起」には熊野の神は異国の地から九州・四国・淡路を経て新宮の神倉の地に降臨したのち「大斎原の三本のイチイの木に三枚の月型となって天降った。」と書かれています。そしてこの地に迷い込んだ両氏に「自分は『熊野三所権現』である。」と告げたといいます。
川からの風がむなしく吹き抜ける旧社地は打ち捨てられた都・飛鳥を思わせます。
熊野本宮大社にはこんな伝説もあります。
かつて鳥羽上皇が熊野本宮(元・大斎原)・証誠殿の前で夜営された時のことです。深夜、御簾の下から手が出て打ち返す動作を繰り返したので巫女に占わせたところ「上皇は来年の秋には崩御されます。その後、世間では手のひらを返すような事が起こるでしょう。」と神託されます。周囲の者たちは血色を失い「何とかして寿命を延ばしていただけませんか?」と口々に云いました。上皇も「神さまは教えを広めるために人々の救済をしていると聞きます。どうかその情け深い心で私の厄難も払っていただけないでしょうか?」とお願いしますが巫女は「救って差し上げたいのは山々ですが人の運命というものは神の力でもどうすることもできません。極楽往生できるようにお祈りになりこの世に未練を残されませんよう。今生の事はあきらめて後生にお勤めを果たしなさいますよう。」と返されます。(わかりやすく訳しているのでかなりダイジェストです。出典:「保元物語」)
予言どおりに上皇は崩御し保元の乱が勃発、間もなく武士の時代が到来します。熊野の神の予言が成就したのです。
当時は熊野の詣でるのはたいへんなことでした。都からの距離や山道の険しさもさることながら参詣者は結界を張った「精進屋」で精進潔斎して、陰陽の博士の勘文によって進発の日・帰京の日が決められます。先達の指導のもと生臭もの(当時は魚味)はモチロンのこと葱や大蒜など香りの強いものも禁止。死穢も嫌いますからたまたま精進屋の前で犬が死んでいたりするとまた最初からやり直しになります。
1109年に熊野へ参詣した正二位権中納言・藤原宗忠は20歳で熊野参詣を志し、48歳にしてようやく念願を果たしました。
旅立ってからもルート上に一町(109m)ごとに立てられた王子(小さな神社)に奉幣・参拝しながら進み、決められた場所で祓えや水垢離・塩垢離(海水)の儀式をします。熊野への旅は禊のたびなのです。
「熊野参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山峻し(きびし)、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜べ(たべ)若王子(熊野へ参ろうと思うけれど歩いて参れば道は遠いし山も険しい。馬で参れば苦行にならない(ご利益が薄い)。空から参ろう。若王子の神さま羽をください。)」
三十四回と南北朝の歴代上皇の中で最も多く熊野へ参詣した後白河上皇の歌です。上皇は他の歌で「熊野へ参るには、何か苦しき修験者よ・・・(熊野へ参るのに何が苦しいことがあるのか修験者よ)」と詠んでいます。やせ我慢しながらもつい弱音を吐いてしまったんですね。いかに厳しい道のりだったかが伺えます。
和泉式部がやっとの思いで熊野の伏拝王子(ふしおがみおうじ:熊野本宮まで1時間ほどの距離)に到着したところ月の障りに遭います。ガックリして
「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき(あ~~ぁ(´・ω・`)…憂鬱なことに月の障りがはじまって参拝できなくなっちゃった。残念だわ。゚(゚´Д`゚)゚。」
と詠むと夢に熊の権現が現れて
「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき(神さまだって地球の仲間・塵から生まれたんだから月の障りを気にして参詣をやめることはない。苦しゅうないお参りしなさい。)」
と返歌したそうです(こちらもだいぶ意訳してます)。
おかげで和泉式部は無事参詣できたと言うことです。
・・・でもこのお話はなんだかちょっと怪しい気が・・・。1000人の男性と交わったと言う和泉式部は非常に奔放な女性だったと聞きます。もしかしたら「ここまで来てお参り中止なんてやってられないわよ( `д´) ケッ! !!」とばかりに夢の話を作ったのかもしれません。…というか自分に重ね合わせたら「私ならやっちゃうかも??」と言う気がします(^_^;) ・・・ま、まぁ・・・熊野の神さまはフレンドリーな方だという逸話です。
権現とは日本の神々は仏教の仏が形を変えて姿を現したものであるという本地垂迹説の考え方に基づいた神号です。神さまというと近づきにくい感じですが「権現」さまは人々と積極的に交わりを持つ伝承が多いようです。
「熊野の神はおしゃべり好き」そんなイメージが強いです。
神聖な空気の大斎原の中でも森だけはぜんぜん違う感じがします。なぜか涙が出てきました。
神はこの地をまだ見捨ててはおられない・・・そう感じれた瞬間でした。
2年後の明治24年(1891年3月)に流出を免れた上四社を現在の高台に遷座したのが熊野本宮大社です。大斎原から500mほどの高台にあります。鳥居の横に高らかに掲げられた八咫烏の旗が目にまぶしいです。そしてまた石段(((;-д- )=3ハァハァ
こちらは158段と低めですのでゆるりとお参りください。
主祭神:
中四社
第五殿 禅児宮 忍穂耳命(おしほみみのみこと)
第六殿 聖宮 瓊々杵命(ににぎのみこと)
第七殿 児宮 彦穂々出見命(ひこほほでみのみこと)
第八殿 子守宮 鵜葺草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)
下四社
第九殿 一万十万 軻遇突智命 (かぐつちのみこと)
第十殿 米持金剛 埴山姫命(はにやまひめのみこと)
第十一殿 飛行夜叉 弥都波能売命(みづはのめのみこと)
第十二殿 勧請十五所 稚産霊命(わくむすびのみこと)
元境内摂末社
・八百万神社
・滝姫社
・八咫烏社
・地主神社
・音無天神社
・御戸開神社
住所:和歌山県田辺市本宮町本宮
アクセス:JR新宮駅から熊野交通バスなどで1時間15分、本宮大社前バス停下車、徒歩5分
サイトリンク:熊野本宮大社
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